Cafe Vita
編集委員・寺島英弥さん

2015/11/27 16:57

震災5年目/余震の中で新聞を作る135 帰れるか、帰れぬのか~南相馬 苦き風評からの再起 その1

 まぶしい春の空の下、田のあぜにはタンポポの黄と「農地除染」の青いのぼり。南相馬市原町区の南端にある太田地区は、福島第1原発事故で南の小高区と接する地域が20キロ圏(旧警戒区域・現在も避難指示解除準備区域)に入り、2011年3月11日の大震災に続く原発事故の際は住民の約9割が市外に避難しました。季節風に乗って原発から北西方向に流れた放射性物質の降下圏からは離れて、土壌1キロ中の濃度も1200ベクレル前後(稲作の規制基準値は同5000ベクレル)と低く、農地除染も西隣の飯舘村などの汚染土はぎ取り方式と異なり、「深耕」(2回ほど深く掘り起こす)が行われています。小高区など政府による避難指示区域は環境省、それ以外の区域は福島県、南相馬市が除染作業の主体で、後者の対象の水田計3265・3ヘクタールに太田も含まれます(9月末現在の進捗率は約72%)。
 下太田集落の農家、奥村健郎さん(58)を訪ねたのは15年4月30日。原発事故からほどない2011年4月29日、地区の区長会の取材で知り合って以来、たびたび立ち寄ってきました。農道に車を止め、広々とした田園を眺めました。緑の里山と白い原町三中の校舎を背に赤いトラクターが、30アールの区画で連なる田んぼの土を細かく耕しています。乗っていたのが奥村さん。地元から市議にも送り出されています。こちらの車を見つけたか、トラクターがだんだんと近づいてきました。
 『太田では、同年3月15日深夜、水素爆発が相次いだ原発事故から逃れるための大型バス5台が各学校の避難所から群馬、長野などへ出発し、住民の9割が市外県外へと自主避難。地区の災害対策本部も解散しました。残った住民がボランティアで本部を再開したのは同23日。太田生涯学習センターに集い、男たちは防犯パトロール、女たちは食べ物の確保、民生委員らは介護が必要な高齢者らの巡回といった役割分担で支え合ったそうです。

 残った住民の1人で、まとめ役となった奥村健郎さん(55)は、「避難した農家の大型ハウスを有効に利用させてもらおうと、キウリ、コマツナ、シュンギク、イチゴなどを収穫し、食べつないだ。旧太田村(1954年の町村合併で原町市に)のまとまりがあったからこそ、乗り切ることができた」と言います。避難した住民がだんだんと戻り始め、区長会が活動を再開したのは同年4月25日。災害対策本部は同7月に「太田地区復興会議」(渡部紀佐夫委員長)と改称し、「これから」に向けて何をしたらいいか、の議論を始めました。』(本ブログ75『祭りの準備/南相馬』より)

 住民の議論から生まれたのが「ひまわりプロジェクト」でした。地元の田園風景の外れにこんもりとした森があり、そこが旧相馬中村藩の「三妙見」の一つ、相馬太田神社(他に相馬市の中村神社、小高区の小高神社)。毎年7月下旬の祭り「相馬野馬追」(無形民俗文化財)で、「中ノ郷」といわれた原町区の騎馬会士の参集場所です。その朝、神社に通じる東西の一本道を大勢の騎馬武者が駆け抜け、沿道の水田の緑が美しく映え、何百年も変わらぬ祭りの風物詩でした。しかし、原発事故以来、市内の水稲は作付け自粛となり、その景色も変わりました。翌12年夏に原町区での再開が決まった野馬追を前に、太田地区の人々はヒマワリを植えました。
 『「中ノ郷の騎馬会士は今年、180騎くらい出るそうだ。例年とは趣が違うが、順調に咲いてくれれば、きっと絵になると思う」。奥村さんは、「プロジェクト本部」の机の上に大きな図面を広げて話しました。相馬太田神社と周辺の手作り地図に、さまざまなデータや地点が書き込まれています。それによると、プロジェクトでは神社を中心に、東西に延びる2・2キロの一本道の両側、幅100メートルずつの田んぼに、計約140キロの「春りん蔵」(注・ヒマワリの品種名)の種をまく、という壮大なものです』(本ブログ75回より)。
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 旧太田村(明治22年発足)以来、農業と結束を伝統とする太田の人々は生業復活を志す、ひまわりプロジェクトのほか、慶応大の研究者らと連携した継続的な空間・土壌の放射能測定や、新潟大、福島大などの支援を受けたコメ栽培試験にも取り組んできました。15年4月は、南相馬市が20キロ圏外での稲作を本格再開した春です。トラクターを降りた奥村さんは「原発事故から5年目にして、ようやくの一歩だ」といいながら、複雑な顔でした。
 『南相馬市地域農業再生協議会(会長・桜井勝延市長)が12日、市内で開かれ、福島第1原発事故に伴う2015年産米の作付け方針について農水省と意見交換した。同省は市内20キロ圏外での作付け自粛の賠償(注・東電が支払い)を適用しない方針をあらためて示した。近く正式決定する。同省は自粛賠償に代わる策として、作付けが難しい農家に対し、16年産の作付け再開を条件に代かきした水田10アール当たり最大3万5000円を補助する新制度を示した。』
 この記事が河北新報に載ったのは、まだ冬のさなかの15年2月13日。分かりにくい交渉話のようですが、南相馬市内の20キロ圏外で前年秋に収穫された14年産米が、全袋検査の結果、食料米の基準値(1キロ当たり100ベクレル未満)をクリアし、それを理由に農水省が、原発事故以来続いた作付け制限への賠償を外す―と決めたのです。原発事故後に続いた作付け自粛への賠償の理由はなくなったと、通常の自由なコメ作りの再開を促した、という動きでした。
 同市は13年から「実証栽培米」と称して稲作の本格再開に向けた試験栽培に乗り出し、希望する農家を募りました(1年目の参加は125戸、123ヘクタール)。翌14年は、検査を通れば農家が販売できるという前提の「全量生産出荷管理」を採り、生産者の意欲を盛り上げようとしましたが、参加した農家は86戸、111ヘクタールと前年より減ってしまいました。市が目標としていた「500ヘクタール」のわずか4分の1でした。
 この背景の一つには、記事中の「自粛賠償」がありました。市は作付けを増やすために10アール当たり2万円の独自奨励金を支給する方針を打ち上げましたが、同時に、作付け自粛の休作に対する東電の10アール当たり約5万7000円の賠償支払いが継続され、農家に再開への二の足を踏ませたのです。背景の二つ目は、農家の間の不安でした。14年4月17日の河北新報の記事では『原発事故前の作付面積は約4800ヘクタールあったが、市内の本格的な農地除染も未着手。桜井勝延市長は「期待したほど農家の作付け意欲が出ていない。除染、販売先の確保を含め、農家の不安払拭に努めていきたい」と話した。』という現実の「壁」が語られていました。そこには、ほかならぬ太田地区に突然降りかかった出来事があり、そのことは後述します。

  この日、奥村さんがトラクターで耕していたのは、自宅がある下太田集落の住民たちから請け負った水田計3・5ヘクタールの一角です。南相馬市の稲作の本格再開に応じて、奥村さんがメンバーである農家有志の社団法人「南相馬農地再生協議会」が請負契約の主体となり、実際の作業に下太田集落の農家仲間たちが参加する再出発の場でした。「自分も2・9ヘクタール分のコメを自前の田で作る準備をしているが、共同して請け負う面積は合計3・5ヘクタール。去年の12月初め、30戸ある下太田集落の住民の意向調査をした。私を含めて農業専業を続ける仲間5人が中心になって、農地を守っていこうと決めた」
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 耕作放棄による荒廃から農地、集落を守り、原発事故からの地域と生業の「復興」を進めるには、意欲ある農家が組織をつくり、自らの手で担わなくては―という危機感が奥村さんたちにありました。調査には28戸が回答し、中核になって担う5戸のほか、18戸が「営農再開はできないが、集落の共同作業を手伝いたい」という意向でした。
 「原発事故から4年の間に農業機械類を動かさず、整備もしないでいると、さびつき、動力を伝えるベルトがだめになり、ネズミが中に入り込んで、わらくずやほこりやごみを巣にして、プラスチックの部分やコードをかじってしまう。仲間は原発事故後も再開に備えて機械の整備を続けてきたし、実証栽培にも参加してきた。可能性を模索していたんだ」
 前掲のブログ75回には、奥村さんが11年の原発事故直後、農水省の作付け制限を知りながら自分の田んぼでひそかに栽培試験をしていたという打ち明け話が記されています。
 『「去年も、実は“逮捕覚悟”で20アール分のコメを作ったんだ。無論、データを知りたかったから。刈り取って測定してもらったら、玄米で19ベクレルだった」。奥村さんの自宅の農機具倉庫の前に、いくつもバケツが並んでいたのを思い出しました。都会の小学校のバケツ田植えのように。「あれも、条件を変えての稲作試験なんだ。やれることは、何でもやってみないと」。ああ、この人も「農」の人なのだ、と思わずにいられませんでした。』
 奥村さんの田の端での話は続きました。下太田には計約50ヘクタールの水田があり、そのうち耕作放棄地になる可能性があったのが約30ヘクタール。有志5戸が共同で作業する3・5ヘクタールを除く水田にも、翌16年の耕作再開を条件にした管理・保全の作業に10アール当たり3万5千円が福島県から補助され、請け負う耕作地は増えそうです。奥村さんたちはこの1年を試行の期間として、16年春には共同経営体である「集落営農」の組織を結成したいといいます。「自分は高齢だからと、いったん農家引退を決めた人たちにも朝夕の散歩がてら『口出し』をしてほしいんだ。『あぜに雑草が伸びているぞ、田んぼに水がないぞ』と長年の現場感覚を生かし、後輩たちを助けてもらえたらありがたい」

 同じ時点の南相馬市全体(小高区を除く)の営農再開の状況は、市の予想をはるかに下回る厳しさでした。市と地元のJAそうまは、実証栽培の2年を経て、さらに休作への賠償がなくなった15年の作付け目標を「1500ヘクタール」に据えました。目標のために両者は、農家の意欲の上で最も支障と思われた「風評」への対策を用意していました。
 14年秋には、東北の全農各県本部が農家から販売委託を受けた際に支払う同年産米の概算金(60キロ、1等米)が、コメの需要減と過剰在庫、豊作予想が重なって軒並み過去最低となり、価格破壊ともいえる惨状になりました。原発事故の風評被害に苦しむ浜通り産のコシヒカリの下落率は37.8%と最悪で、11000円から6900円に暴落しました。「コメを作るだけ赤字。南相馬のコメでは売れない」という不安や諦めを抱く農家側に、市が提示したのは、大半を飼料用米として出荷し、販売先をJAそうまが責任をもって確保する―という方策でした。飼料米は転作扱いとされ、農水省の「戦略作物助成」によって10アール当たり8万円を超えるような収入が見込まれました。市内の20キロ圏外に当たる原町区、鹿島区では震災前に約3800ヘクタールの水田でコメづくりが行われていました。再開する面積をその半分に近づけよう目標でしたが、それでも実際には、市の最終的な数字で729ヘクタール(236の農家と法人)にとどまりました。
 前掲の15年2月13日の記事にあった農水省の方針は、被災地にとって復興や自立につながる一歩のはずでしたが、地元側の反応は逆でした。その記事の続きには『(南相馬市地域農業再生協議会に)出席した農業者からは、理解を示しつつも「13年産米の放射性セシウムの基準値超過の原因が未解明で作付けは不安だ」と自粛賠償の適用継続を求める声が上がった。』とあります。そこで問題とされた13年産米に何があったのでしょうか。
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 次に太田を訪ねたのは5月16日。わずか2週間ばかり前、奥村さんのトラクターが耕起していた3・5ヘクタールの水田には満々と水が張られ、緑の苗ではなく、黄色い種もみが泥の床に沈んでいました。苗を育てる設備と手間を省き、経費もできる限り節約しようと、種もみの直播(じかまき)によるコメ作りに初めて挑戦したのです。そこから1キロほど西に、相馬野馬追ゆかりの相馬太田神社があります。その森を間近に映す広い水田では田植え機が慌しく駆け巡り、奥村さん宅の育苗ハウスから青々とした苗を補給する軽トラックが往来していました。周囲には、えさをついばむシロサギの群れが見えます。
30アールに区画整理された水田を東西に14枚連ねた広い圃場(ほじょう)には、大きな看板が立てられ、「平成27年度放射性セシウム水稲吸収抑制調査・研究試験圃場」とあります。その活動の主体として新潟大学の土壌学研究室と水利学研究室、福島大学うつくしまふくしま未来支援センター、圃場の管理と耕作を請け負う南相馬農地再生協議会、この調査研究の委託者である南相馬市の名が並んでいました。
 南相馬再生協議会は14年2月、地元太田の高(たか)集落の有機農業者、杉内清繁さん(64)、奥村さんら市内の農家13人と8つの団体が結成しました。12年夏に太田の水田に咲いたヒマワリの話がブログにありましたが、ヒマワリのほか、菜種などの油脂植物の栽培と油の利用に南相馬の新たな農業の可能性を見る人々です。
 田植え機の運転席には、メンバーである奥村さんがいます。こちらの水田は販売用のコメ作りではなく、「水田土壌・農業用水中の放射性セシウムの挙動と稲・玄米への影響を調べ、永続的に安心して営農活動ができるよう調査研究」するのが目的で、地元の農家から南相馬農地再生協議会が借りている試験圃場。やはり有機農業の研究者として知られる野中昌法新潟大教授(大学院技術経営研究科研究科長)らとの協働で13年春、「ひまわりプロジェクト」の名で始まりました。

 『南相馬市は13年春、市内の農業復興の一歩として、コメの試験栽培を希望する農家を募りました。奥村さんら太田地区の農家有志もまとまって応募し、同プロジェクトの「実証田」としてコメ作りをしました。155戸の農家が参加した、計123ヘクタールの試験栽培のコメは、放射能測定検査を通れば、自主販売をすることができました(国の食品の基準値は1キロ当たり100ベクレル未満)。約1万袋(30キロ入り)が収穫され、市にとっては農業復興の第一歩でした。ところが、検査の結果、太田地区から収穫された27袋が基準値を超え、そのうち24袋がプロジェクトの実証田のコメでした。
 奥村さんは、場所が離れた自分の田んぼで11年から、セシウムを含む泥水が雨後に入りやすい水口(取水口)に活性炭のフィルターを設けるなど、独自の栽培実験をしてきました。そこのコメは「ND」の結果でしたが、「地元を挙げたプロジェクトのコメから『基準値超え』が出たのはショックだった。田んぼの土には今も、セシウムが(土1キロ当たり)2000ベクレル前後あるのは確かだが。どうしてここだけが・・と悔しくて仕方がない」と、今年(14年)4月の取材で語りました。』(本ブログ117『風評の厚き壁を前に/コメの行方・相馬・南相馬』より)
 13年秋にあった出来事です。この年、相馬太田神社そばの試験圃場は、現在の3倍近い約11ヘクタールありました。そこから、24袋の「基準値超え」が出たのです。当時、プロジェクトに関わる人々はその結果に驚き、首をかしげました。参加する研究者たちはそれぞれ専門の知見を持ち寄って、試験前の春先から土壌と水を調べ、稲にセシウムを吸収させないためのさまざまな実験をしてきたからです。原因が分からぬまま、奥村さんらは14年春から、「基準値超え」のコメが出た水田でセシウム吸収の有無をさまざまに条件を変えて調べ、「基準値超えの原因が何か、突き止める」調査に取り組みました。『田んぼの中に塩ビパイプを切った筒を17カ所に置き、周囲の土壌から隔離した環境で苗を育てたり、波打ちトタンで試験圃場を細かく区切って、セシウム吸収抑制効果のあるカリウムの分量や、土に酸素を入れる「中干し」の程度を変えたりしています。』(ブログ117回より)
 ところが、同年7月、奥村さんらをさらに困惑させる問題が太田に降りかかりました。
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 『南相馬市で昨年秋に収穫されたコメから国の基準値(1キロ当たり100ベクレル)を超える放射性セシウムが検出された問題で、農林水産省が福島第1原発のがれき撤去作業で生じた粉じんが原因の可能性があると指摘し、東京電力に防止策を求めていたことが14日、明らかになった。基準値超えのコメが収穫されたのは、原発から21キロほど離れた同市原町区太田地区の14カ所と20キロ圏内の同市小高区の5カ所。農水省が調査した結果、放射能濃度は、昨年8月中旬以降に出穂した穂などで局所的に高かった。
 基準値超えの原因は現在も特定できていないが、農水省は同原発で昨年8月19日、3号機のがれき撤去作業の粉じんで作業員2人が被ばくした事実に着目。粉じんが風に乗って飛散し、コメに付着した可能性があるとみて、ことし1月に原子力規制庁に相談。同3月、東電に原発の作業で放射性物質を外部に出さないよう要請した。』(14年7月15日の河北新報より)
 この事実は前日、ある全国紙がセンセーショナルに報じました。以下は前掲記事の続きです。『農水省は2月の南相馬市での(『基準値超え』に関する)説明で、放射性物質の外部付着の可能性を指摘したものの、原発作業との関連については言及しなかった。その後の東電への要請についても市に連絡はなかった。農水省穀物課は「原発からの飛散も可能性の一つという段階で、報告はしていなかった。さらに調査して原因を解明し、対策を講じていく」と説明。桜井勝延市長は「もっと早く説明があるべきだった。原発作業による飛散があるとすれば、農業だけにとどまらない問題。対策を徹底してもらいたい」と話した。』
 つまり、農水省は第1原発からの粉じん飛散による稲の外部汚染の可能性を認識しながら、地元には秘していたことになります。記事にある桜井市長の憤りも当然でした。同18日には農水省側が南相馬市役所で事実関係を説明しましたが、『同省の担当者は「(基準値超えの)原因はいまも不明。森林や土壌からの巻き返しなどほかにも可能性がある」などと主張し、謝罪しなかった』(翌19日の河北新報より)。
 この説明を現場で聴いた奥村さんは「本当に因果関係が分からないのか、特定して責任を認めたくないのか。いずれにせよ、納得できなかった」と語りました。その後、第1原発からの粉じん飛散についての「状況証拠」が、研究者たちから相次いで挙がりました。
 小泉昭夫京大教授(環境衛生学)らは第1原発から約50キロ離れた相馬市内で大気中の粉じんを集めて測定中、『昨年(13年)8月15~22日分から、他の時期の6倍を超す1立方メートル当たり1.28ミリベクレルの放射能を検出』『粉じんの粒子が比較的大きく、原発のような放射性物質が密集する場所で大きくなったと推測される-として、8月19日の原発がれき撤去が原因とみている』(14年7月17日の同紙より)。

 南相馬市で試験栽培を指導する後藤逸男東京農大教授(土壌学)は、同市原町区太田の実験田で『放射性セシウムの吸収を抑えるカリ肥料やゼオライトによって昨年7月時点で稲の茎葉のセシウム濃度が前年より一様に低かった。しかし、収穫された玄米からは前年を上回るセシウムが検出。水の影響は考えられず、昨年8月に原発解体現場から粉じんが飛散したことから、後藤教授は「特定する証拠はないが、原発からの飛散が原因だと合理的に説明できる」と話した。』(同8月26日の同紙より)。
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 その間にも、南相馬市は政府と東電に対し、粉じん飛散の再発防止と監視の強化、迅速な情報提供、新たな風評被害への賠償などを要求書にして訴え、農水省にも原因究明の調査徹底を求めていました。同年11月には、収穫された14年産米約8000袋が全て「検出限界地未満」であることが分かり、この段階でも農水省は「調査中で特定に至っていない」との説明を繰り返していました。そこへ突然、政府の原子力規制委員会が登場します。
 『昨年8月に東京電力福島第1原発3号機のがれき撤去作業で飛散した放射性物質が20キロ以上離れた福島県南相馬市のコメを汚染した可能性が出ている問題で、原子力規制委員会の更田豊志委員は31日の会合で「飛散量を考えると、がれき撤去がコメに影響を与えたとは考えにくい」との見解を示した。』(同11月1日の同紙より)
 『昨年8月に東京電力福島第1原発3号機のがれき撤去作業で飛散した放射性物質が20キロ以上離れた福島県南相馬市のコメを汚染した可能性が出ている問題で、原子力規制委員会は26日、放射性セシウムの降下量を試算した結果、コメの基準値(1キログラム当たり100ベクレル)超えを引き起こす恐れのある量の数十分の1だったとの見解をまとめた。規制委は、がれき撤去が原因である可能性は低く、原発事故で既に広がっていたセシウムがコメに移行したとみている。規制委の田中俊一委員長は「福島県は広範囲に放射性セシウムの汚染がある。県民のために、各行政機関が(基準値超えが出た)原因の究明に取り組む必要がある」と述べた。』(同11月27日の同紙)

 奥村さんらは、この動きを「幕引きではないか」と見ました。田中委員長の後段の発言も、問題のすり替えのように映りました。そして、15年5月末、南相馬市の人々が原発粉じん問題の発覚から1年近く待たされた農水省の調査結果が報じられました。しかし、その内容は―。
 『南相馬市の2013年産米から国の基準値を超える放射性セシウムが検出された問題で、農林水産省は26日、最終調査結果を公表した。東京電力福島第1原発からの粉じん付着、土や水からの転移に、いずれも否定的な見解を示し「原因は不明」と結論付けた。
 調査は市の依頼で実施。稲の葉に付いていた物質の成分分析などでも由来の特定には至らなかった。農水省穀物課は「原因究明できなかったのは残念。対策を周知して作付けの拡大につなげたい」と説明した。』(同5月27日の河北新報より)

 「国は逃げたんだな」と奥村さんは語りました。「(新潟大の)野中さんたちの検証と分析では『現場の土壌にも水にも(『基準値超え』を発生させる)原因はなかった』という結果だった。農水省がきちんと調査をした経過と努力をわれわれに見せるなら分かるが」。これでは門前払い同然といわざるを得ませんでした。

 太田の人々と研究者たちは14年に続いて、南相馬市内の稲作が本格再開された15年も試験圃場に苗を植え、13年時点の土壌をそのまま残した区画を含めて、稲のセシウム吸収抑制の比較実験を続けました。それは「『濡れ衣』と風評だけを残された、それを晴らさなくては」という強い思いがあるからでした。15年の試験圃場、そして、3・5ヘクタールの直播の水田で育てられるコメは、うまいと評判になった福島県の奨励品種「天のつぶ」でした。「俺たち農家はいつだって、いいコメを作りたい。それを牛や豚ための飼料米として売らなくてはならないのは悔しい」

4月30日、集落の農家仲間と初めて直播(ちょくは)に挑む水田を耕す奥村さん

2012年7月19日、相馬太田神社に至る道沿いに育ったヒマワリと奥村さん

12年7月29日朝、満開のヒマワリの中を行く相馬野馬追の騎馬武者

15年5月16日、新潟大、福島大と協働する試験圃場に苗を植える奥村さん=後ろの森は相馬太田神社

試験圃場に植えられた「天のつぶ」の苗

プロジェクト3年目の試験圃場に立てられた看板=8月27日